小樽市祝津の漁師・青塚忍さん インタビュー

「ニシンの大群、200カイリ、そして育てる漁業へ」

 祖父は、秋田から祝津に出稼ぎに来ていましたが、その後明治の終わり頃移住して結婚。祝津の住人となりました。最初は茨木家の船頭として働いていましたが、親方に認められて独立。最初は小さい漁場を与えられ本格的に漁業をやるようになりました。
 私が小さい頃はニシンが来ていました。今でも忘れられないのは昭和29年、小学校4年のときにニシンの大群が押し寄せ、学校が休みになったことです。子どもを労働力にしなければならないほどの量のニシンが獲れ、浜は大賑わいでした。当時、秋田や新潟など東北一円から出稼ぎに来ている人がたくさんいて本当に賑やかだったものです。高島あたりは新潟が多かったですね。
 ニシンは定置網で獲る魚ですが、その網は海に隙間のないくらいたくさん張っていて、その頃の漁師はニシンだけで食べている人がほとんどでした。群来は祝津から東小樽の方まで海一面に広がり、現在の群来とは規模が違います。当時祝津の漁村の裏山には、段々畑のように山を階段状に削りニシンを干す場所を作りました。今も一部に当時の形跡がそのまま残っています。ニシンの時期が終わるとホッケ、カレイ、ヤリイカなどが取れ、1年中漁は続いていました。今の漁師は一人一人船を持っていますが、昭和45年頃までは親方が持っている船に乗り子として乗せてもらい、自分が釣った魚の分を親方にお金を支払う仕組みでした。
 昭和30年代に入り、ニシンが獲れなくなってからは、出稼ぎに出て行く人が多くなりました。オホーツク海の常呂町へホタテ漁などに行っていたのです。うちは、徐々にカレイの刺し網に切り替えていきました。冬にカレイを取り、春にニシンなどの定置網をやり、7月になるとコンブとテングサを獲りました。当時ウニもありましたが、冷蔵設備がなかったので保存方法に苦労したものです。ウニを塩辛にしたりしていましたね。秋からはシャコ。そしてカレイの刺し網と続いたのです。
 昭和30年以降は200カイリがあり、漁業に大きな変化がありました。小樽の大きな船は50隻位あったものですが、今では4隻になってしまいました。水産加工場も20軒位あったのですが、これも今では数軒になっています。
 昭和50年頃からは底引き漁が駄目になり、昭和60年頃からウニとアワビの種苗放流が始まりました。ホタテの養殖では、かごにホタテの稚貝を入れ3年間育てました。今ではホタテは、小樽漁業の中心にもなっています。ヒラメも養殖しています。
 昭和50年代の後半に道の指導でニシンの種苗放流が始まりました。現在のニシン漁につながるものです。ある程度獲れるようになると、自然に産卵し毎年取れる自然のサイクルができます。それでも、種苗の放流は続いていて、漁業者が漁業協同組合を通じて放流の費用を負担しています。最初の5年間は道が面倒を見てくれましたが、今は稚魚だけは提供してくれますが放流の費用は自分たちで賄っています。
 青塚食堂は、昭和33年の北海道博覧会のときにお客様に提供したのをきっかけに常設の店になりました。ニシンが来なくなったり、その後の200カイリなどの漁業環境の変化に合わせて、祝津の地で漁師を続けながら生き残っていく手段だったと思います。母や妹が一生懸命店で働き、たくさんのお客さんに支えられ今日があります。私も今は漁師として秋はサケ漁に出て、漁師としての喜びを感じています。

青塚 忍さん プロフィール

昭和19年小樽市祝津の漁師の家に生まれる。学校を卒業後当時小樽市営だった水族館(現:おたる水族館)に就職。その後、市役所水産課に配属となり、退職まで水産畑を歩んできた。青塚家は明治時代後期に、祖父が秋田から移住し、祝津の三大網元のひとつ茨木家の船頭として働き、後に独立した。