小樽の水産業の歴史〜ニシン漁全盛期

江戸末期から明治にピークを迎えたニシン漁

小樽は慶長年間(1596~1610年)に松前藩の大名が家臣に与える土地・知行地として開拓されました。その後、ニシンを求めて南から移住する人の増加により、元治2(1865)年に漁業中心の集落314戸が建ち、村並みの組織が形成されたのが始まりとされています。

 江戸時代末期の松浦武四郎の「西蝦夷日誌」によると、島牧のあたりから岩内、積丹、余市、小樽、石狩、増毛、留萌、苫前あたりまで北上していく中で、「運上家」や「鯡(にしん)」の記述が頻繁に登場します。高島運上屋のところでは、「底には海藻多くして鯡(にしん)よくよる也」や、手宮のところでは、「人家つづき、茶や・はたごや立ちつづき繁盛なること筆紙に書きしがたし」とあるように、小樽近辺も江戸末期からニシンをはじめとする漁業でにぎわっていたことがうかがえます。

明治39年の小樽港(写真提供/小樽市総合博物館)

 小樽周辺のニシン漁は、幕末~明治初年までは年産4万石平均(※1万石は7500トン)といわれていましたが、明治20年代には、少し落ちたものの、漁場の開拓、増網と漁法・漁具の改良で水揚げ高も、乱高下を繰り返しながら、明治30(1897)年には、最高の水揚げを記録します。その明治30年の国内ニシンの漁獲量は97万9984トンで、100万トン近い量をほこっていました。これは海草なども含めた同年の国内総漁獲量約174万トンの6割近くを占めています。この97万9984トンは、ニシン漁獲量としては国内の最高記録ですが、この数値がいかに驚異的であるかというと、明治30年といえば、近代的な装備を備えたトロール船がまだなく、ヤン衆がソーラン節を歌いながら、人力と乏しい漁具・装備で水揚げをしていたことです。当時、ニシンは3月末から5月にかけて沿岸の浅いところに大群で押し寄せ、メスが産卵し、オスが放精することで海が白く濁る「群来(くき)」が見られ、活気にわいていました。

 ちなみにニシン漁の収益はどのくらいあったかを計算した資料によると(小樽ライナスVol.20「北海道春ニシンうんちく講座(3)」ニシン漁の儲けをさぐる/高橋秀明)、現在の数字に照らし合わせて百万石当たり300万円とし、当時三大網元といわれた祝津の白鳥家の漁場では、明治17年の漁獲は6487石。同18年は6515石。同19年が6211石で、計算すると毎年1億円以上の利益があったとされています。

 さらに、榎本守恵の「北海道の歴史」によると、「ニシンは、春告魚とも呼ばれるように、春先大量に群来て、その2、3カ月の量が〈一起し千両〉といわれ、漁師は鰊漁だけで一年間生活できた。まさに蝦夷地の春は鰊漁からはじまったのである」と記述があります。当時網元の番屋には、各地から漁場の労働者であるヤン衆が集まり、100人以上が寝泊まりしていました。煮炊きの匂いがあふれ、威勢のいい掛け声や歌が番屋に響いていたそうです。小樽市内に現存するいくつかの網元の番屋からはニシン漁の繁栄ぶりがうかがえます。

昭和初期頃のニシン漁のようす(すべて写真提供/小樽市総合博館)